進化の過程で、有機体(動植物)は呼吸を抑制する能力を開発した。これはある状況下でこの能力が生き残りメカニズムとして機能するからだと当然視することができる。
動物が捕食動物からの差し迫った脅威にさらされていると感じるとき、その動物は自らを目や耳で確認できない存在にしようとする。(その結果)その動物は動きを止め、息を殺す。これは条件反射である。捕食動物もまた自らを相手から視認できないようにするので、ここでもまた息を殺すことは重要な役割を果たす。
人間もまた恐怖を感じた時に息を殺すが、死の危険が差し迫った時だけ恐怖を経験するのではない。現代社会では行動規範、すなわち言葉ではっきり示されていないが自明ともいえるしきたりが発達した。私たちには、ある特定の社会状況においてどのように行動すべきかの規則や規定や禁止条項がある。私たちはこれらの暗黙のしきたりにおおむね従わなければいけない。社会はこれらのことが遵守されることを要求する。
子どもは非常に早い時期に大人に対してどう振る舞わなければいけないかについて家庭の雰囲気から学ぶ。社会の規則、その大部分は、人々の間の開けっ広げで自発的で偽りのない関係を必ずしも支えてくれない。大人は命令し、服従が要求される。抗議、反抗的態度、叫び声をあげること、攻撃は多かれ少なかれ厳しい罰をもたらす。子どもはそれがどんなに厳しくてもそれ程でなくても、あらゆる種類の罰を大人が愛情を引っ込めた印として経験する。子どもは罰を恐れる。それ故、子どもは(罰をもたらす)感情を多かれ少なかれ抑える、つまり抑制する。そして感情の抑制は、必ず、呼吸の抑制を伴う。
子どもは学校に行く。生徒としての基本的な立場は、ことによると学校の雰囲気の方が厳しいだろうが、家庭での立場とよく似ている。大人は指示を与え、生徒は規律に則った形で従わなければいけない。教師に対しては反論や言い争いは許されない。もしその生徒が教師の意見と異なる場合、たとえ自分自身の意見に強い確信があったとしても、教師の反応を恐れて、そのことは言わないだろう。生徒が教師への敵対感情を経験し始める場合、たとえそれが正しいと感じても、その感情を抑制し飲み込まなければいけない。(その時)その生徒は息を殺すであろう。子どもが恐怖心から自分の感情を抑制するとき、その行為は、必ず、呼吸抑制を伴う。
勿論、この概略的に示した(感情抑制の)発達過程にはあらゆる場合においてこのようなマイナスの影響があるわけではない。その影響の本質は社会的環境の雰囲気と特定の人物の内面的な強さに大きく左右される。ここで述べられた影響よりマイナスが大きい場合もあれば、それより弱い場合もある。2011年現在、まだあまりにも少ないが、家族も学校もあり、そこでの(社会的)雰囲気は20世紀よりも良い。しかし、全般的かつ根本的な雰囲気は相変わらず同じである。大多数の人々の中で、感情を開けっ広げに表現することへの恐怖心はまだ生きている。
学校を卒業してから、その人物が大人になり、「実生活」として知られている世界に入って行く。彼は仕事や勤め先を探し、新しい人や仕事を与えてくれる雇用主、同僚(自分に対する彼らの評価はまだ分からないし、彼らから彼に何を期待され、どう思われているかが分からない)と接するようになる。数十年にわたる感情の抑制パターンが無意識の内面的態度、心の在り方になってしまった。
当事者には表現できず、飲み込まざるを得なかったこれらの感情はどうなるのか。これらの抑制された感情は強い痛みを伴い、とても耐えがたいものである。それらは消えることも破壊もされることもないが、当事者はこうしたことを絶えず感じたいとは思わない。それ故、おそらく無意識のうちに、抑制された感情が生じて筋肉組織に働きかける神経組織から、その感情を追い出すのであろう。この追い出し作用が筋肉の弾力性の欠如を引き起こす、つまりこれによって筋肉が硬直するのである。
動物の世界では、差し迫った脅威が過ぎ去ったとき、動物は息を殺すのを止(や)める。一方人間に関しては、上述した様々な要因が常に存在するので、呼吸を抑制する行動パターンは繰り返し行われる。
当然、呼吸を抑制する原因は他にも存在しうるが、ここでは詳細に検討することはできない。根本的な原因は社会の雰囲気であり、それが行動について絶えず警戒の目を向けることを要求する。私たちは無意識だとしても、絶えず自分の行動を監視しなければいけない。
呼吸と感情の抑制、それらを筋肉組織内に閉じ込めることは、特にそれが長く続けば、膨大なエネルギーを要する。神経と筋肉組織内の絶え間ない緊張は、内面的な安全が保たれているという心理学的な意味での幻想を作り出す。しかしもちろん、この絶え間ない緊張状態では、人は自然に、そして自由に歌うことはできない。そして人々はこの偽りの安全意識を捨てるのに非常に苦労するのである。
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