呼吸について論じるとき、たいていの人たちは主に吸息のことを考える。そこが彼らの論点だからである。大多数の人々は、その分野の専門家も含めて、呼吸が共に単一体を形成する2つの側面から成ることを認識していない。2つの側面は同一ではないけれど、どちらも同様に重要である。第1の側面の目的は酸素(燃料)を体内に引き入れることである。第2の側面の目的は二酸化炭素と他の物質を体内から取り除くことである。
しかしながら、進化はまた呼息の側面にもう一つの目的を与えた。それは声を作り出すこと、発声による自己表現の可能性、すなわち、先ず感情表現、次に意思表現(歌うことと話すこと)の可能性(を実現すること)である。
呼吸と情緒・感情の状態を表現することとの間には最も緊密な関係がある。
20世紀において、ヨーロッパやアメリカの大多数の人たちが正しく呼吸していないのは事実である。彼らは生理学的に正しい方法で呼吸していない。このトピックについて非常に多くのことが書かれ、言われてきた。人々はその問題をますます意識するにつれ、解決策、つまりその状況を改善する何らかの方法を探している。ますます多くの呼吸療法が提供されつつある。この分野で自分を有能だと思う人々は正しい呼吸を教える方法を探している。彼らは様々な呼吸技術や呼吸方法、瞑想などを試している。
正しくない呼吸とはどのようなものなのか。この分野で自分を有能だと思う専門家たちは、人々の呼吸方法は体に満足をもたらさない、体に不十分な酸素を供給している、浅過ぎるなどといった印象を持っている。
サモシスクールの見解によれば、問題は、大多数の人たちが意識的にせよ無意識にせよ、もし彼らの呼吸が自動的かつ自然に機能した場合にするようには十分に息を吐くことがないだろうということである。そうではなくて、個人によって程度の大小はあれ、肺の中で息を抑え込んでいるのである。
ラヨス・サモシは声楽のレッスンの際に、生徒が呼吸を抑制すること、それが発声や歌唱や表現に関する問題の原因であることに気付いた。呼吸を抑制する結果、生徒は声も抑制する。(今こう述べたが)これより他に的確な表現はない。なぜなら声は息だからである。また生徒は音楽によって呼び起される感情をも抑制する。息を抑制することはおそらく声門を狭めたり、舌を引っ込めたり、咀嚼筋を硬直させたりすることなどの組み合わせによって起こり、その全てが呼息に、もちろん無意識にだが、ブレーキを掛ける作用がある。その結果、横隔膜は吸息中は引っ張られて平らになるが、呼息中は胸部における横隔膜がリラックスした位置に戻ることができない。
通常の場合、吸息中は外肋間筋が引き上げられてろっ骨を広げ、呼息時に内肋間筋がろっ骨を引き下げるのを助ける。呼吸が抑制されるとこうしたことが本来の正しい形で起こらない。
この抑制が長く続けば続くほど咀嚼筋、舌、肋間筋、横隔膜、腹部の筋肉などが硬直する。これらの筋肉は徐々にその弾力性を失う。
(そのため)肺の下部は通常の場合のようには空気が空にならず、それ故肺の下部には新たな空気を入れる十分な空間がない。新しい息(吸気)は肺の中に深く入らず、浅くなる。息を吸うときにより深く吸おうとするとき、かろうじて肺を空気で一杯にできるかもしれないが、次の呼息の際に呼気の一部はやはり抑制されるであろう。息の抑制はまた各個人の基本的な心的態度として内面化されるようになる。
勿論、何故現代社会の大多数の人たちが呼吸を抑制するのかという問題も生じる。
おそらくこれには社会的、心理的原因があるだろうが、根本的な原因は生物学的なものである。
つづく
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