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Satoshi Hasegawa

L.サモシの脱力声楽メトード2

更新日:2020年11月8日

No.2  また彼は自分で演奏しているときに,自分に聞こえてくる内側からの声と他人が聞いている声とでは大きな乖離があることに改めて気づき,そのことを何世紀も前にイタリアのマエストロたちが述べていたことを発見します。それは歌唱と音響学の新しい理解でした。そしてますます彼は歌唱法に思いを深くして研究を拡大していったのです。 彼は隣接する解剖学,生理学,心理学,美学についても,歌唱と音楽の自然さに更なる力をもつこうしたジャンルのすべてを探求していきます。その中にはフロイトの新しい精神分析のアプローチも含まれます。それは主題に精神的な幅を持たせて、彼の洞察を大いに深めることになります。 精神的なものと肉体的なものとは実際には切り離すことが出来ないものです。歌うことが最適に自由であるために,また見事で表情豊かな歌唱のためには,その両翼はそれぞれが分解し研究されなければならなかったのです。

サモシは歌唱する際の最重要のことがらである呼吸において,1920 年代のドイツで最も影響力があったといわれるパウル・ブルンスPaul Brunsの「最少の息」理論を採用しました。これについては後述しますが,一般に行われる肺一杯に吸い込むやり方とは全く対照的というべき方法です。さて彼はこの間に洗練されたピアニストで大歌手であったテレサ・ヴァジャ・ムルモヴァ(彼女は 90 歳を越えた現在でもプラハで健在,非常に尊敬されている教師)などによって大いに援助されました。 彼らは私邸にて演奏会を組織して,当時ようやくその研究が始まったばかりのその宝のような,初期の音楽曲に光を当てました。多くのキャリアを積んだ音楽家達がこれ以降サモシ邸のコンサートに出演したり,聴いたりするために出入りします。彼らの一人がピアニストのジョルジュ・シェベックで ある。彼はサモシから最も大きな影響を与えられ,サモシを尊敬していた一人です。その屋敷には優秀な科学者や,画家,作家が頻繁に出入りしていた。サモシ邸は音楽的にそして文化的に非常に豊かな環境でした。そしてサモシ家はブダペストで第二次大戦を生き延びます。

ラヨシュ・サモシはブダペストから戦後ブカレスト,ローマに移り,また再びブダペストで研究と仕事をしていましたが,1957 年に共産主義を逃れてウイーンへ移住し,その地でウイーン国立音楽大学の 声楽科教授の職にあたりました。

1979年に彼は死去しましたが,現在は氏の子息であるエドウィン・サモシEdvin Szamosiがその歌唱法の開発と発展をウイーンとニューヨークで引き継いで行っています。  

~つづく~

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